南極地域観測隊

関電工は、大学共同利用機関法人 情報・システム研究機構国立極地研究所(以下、「極地研」)より要請を受け、1986年の第28次隊から南極地域観測隊に社員を派遣しています。

南極日記

第62次南極地域観測隊
越冬隊 設営主任 上原誠

第62次南極地域観測隊の越冬隊に関電工から参加した上原誠隊員。
4回目の越冬となる大ベテランで、昭和基地の電気設備工事などに従事しつつ、隊員を束ねる役割も担います。極寒の地での生活は、ぼんやりとはイメージできるものの、その内実はあまり知られていません。
行き帰りの船上生活や現地の食事、息抜きの方法、そして何より日々の任務の実態は?
上原隊員が5回にわたって紹介します。

第1回 準備にもコロナ禍の影 ~異例の事態乗り越え到着~

日本の南極観測は60年以上の歴史を持ち、世界の極域科学の発展に大きく貢献してきました。 これまでの南極観測の成功は、人や物、時間などの全てが制限された中で任務を完遂してきた先人たちの努力によるものです。昭和から平成、令和へと時代は変わり、様々な技術が目覚ましい進歩を遂げても、常に死と隣り合わせである南極の自然の厳しさは、何一つ変わっていません。

今回で4度目の越冬隊参加となる上原隊員。後方には昭和基地と雪上車が並ぶ

任務4度目

私は関電工から国立極地研究所に出向し、昭和基地で機械担当兼設営主任として任務に当たっています。越冬隊への参加は今回で4度目。昭和基地も初期の小さな小屋から大規模な観測基地へと変貌を遂げています。
現在、観測活動や隊員の生活に必要なエネルギーは300kVAのディーゼル発電機で供給しています。短い夏の期間では、日の暮れない白夜の中、観測や生活に必要な建物の建設、越冬期間中に使用する燃料・食糧などの物資輸送に従事。1年に及ぶ越冬期間では大陸や各地への調査、様々な観測活動の支援をしながら昭和基地の維持・管理に努めています。

訓練が中止

南極観測隊準備として、例年だと1月に健康診断、3月に冬季総合訓練、6月には夏期総合訓練に参加していますが、今回は新型コロナの影響で夏期総合訓練が中止に。代わりに極地研の会議室で2日間の出発準備説明会を行い、一部の隊員はテレビ会議で参加しました。2020年7月には極地研に隊員室が開設されましたが、机の配置も隊員同士が向き合わないようにし、最大限の配慮がなされました。
部門別の訓練では各企業などに出向き、装置の取り扱いを習得していきますが、これも新型コロナの影響を大きく受けました。訓練先の研修所が利用できず、極地研に研修機器を持ち込み、講師に来て頂き、訓練を実施。同年10月にふ頭倉庫に物資を搬入・集積し、観測船「しらせ」への搭載に備えました。例年はしらせへの搬入、船内の捕縛にも立ち合いますが、この積み荷を確認する隊員もごく一部に制限されました。
同年11月6日から出発までの2週間、宿泊施設(個室)で生活し、外部とはもちろん、隊員同士も接触もしないようにしました。隔離期間中はテレビ会議システムを利用し、各隊員の担当しているミッションの確認や、南極での事故事例に基づいた安全講習を行って過ごしました。

しらせ乗船

全員のPCR検査が陰性となったことが確認できたことから、隔離を終えて11月20日に南極に向けて出発しました。早朝に宿泊施設から海上自衛隊横須賀地方総監部内の桟橋に移動。沖合に停泊中のしらせから迎えにきた作業艇に乗り、作業艇からしらせへは海上でタラップを使って乗船しました。しらせの乗組員も沖合に停泊し隔離していましたが、乗船後も2週間、観測隊も乗組員もマスク着用で過ごしました。船室は通常2名1部屋ですが、感染対策として1名1部屋としました。
出発当日から、大気観測や船上磁力観測などを開始。隊員は救命胴衣の装着方法、溺者救助の講義、航空機救助用具・火工品取り扱いの実技訓練に取り組みました。各担当が講師となり、南極の気象、雲の観測方法、野外観測の安全対策、通信機の使用方法、南極における医療・応急処置、昭和基地での夏生活・越冬生活、夏設営作業時の危険予知活動と安全対策、野外フライトと注意点、事故事例検討会といった様々な講習も実施しました。
同年12月19日にしらせから昭和基地に第1便のヘリコプターが飛び、隊長と共に昭和基地に上陸。その後も第2便、第3便と人員や優先物資などの空輸が行われました。こうして第62次南極地域観測隊は異例の事態を乗り越え、無事目的地へと到着しました。
(2021年6月16日 電気新聞10面掲載、写真提供:国立極地研究所)

第2回 快適支える「電気屋さん」

南極大陸は南半球にあり、日本とは季節が逆になります。太陽は東から昇って北を通り西に沈むため、日当たりが良いのは北向きになり、北風が暖かくなります。夏には太陽が沈まない白夜、冬には太陽が昇らない極夜となります。
面積は日本の約37倍。地球上で最も強風、乾燥、寒冷な大陸です。大陸の99%は氷床に覆われ、氷床の厚さは最大4897m、平均約2000mと言われています。地球上の氷の90%、淡水の70%が南極にあり、大陸沿岸にはペンギンやアザラシなど多くの生き物がいますが、内陸にはほとんどいません。

皇帝ペンギンと上原隊員。大陸沿岸部には生物も多く存在する

雪から水を

昭和基地は東南極のリュッツォ・ホルム湾内にあり、南極大陸から4キロほど離れた東オングル島の北側、南緯69度00分19秒、東経39度34分52秒に位置します。オーロラ帯の真下にあることから、天気の良い日は寝転がって真上を向いてオーロラを鑑賞をするのが一番です。
日本との時差は6時間。冬の時期には最低気温がマイナス40度を下回ることも(過去最低気温は、マイナス45.3度)。年間で平均25回程度、猛吹雪(ブリザード)に見舞われます。そんな過酷な環境の中でも昭和基地では快適に1年間生活を送っています。
日本ではコンセントにプラグを差し込めばいつでも電気が使え、蛇口をひねればいつでも水が出てきます。それは全て日本の電力会社や水道局がしっかり管理し、設備が整っているからです。昭和基地でも同様ですが、もちろん、電力会社や水道局がある訳ではありません。ディーゼル発電機を使って電気をつくり、必要な場所まで配線して照明やコンセントなどに利用しています。
水道の水は雪や氷を溶かしてつくり、それをろ過して飲料水などにしています。雪を溶かしお風呂のお湯をつくったり、室内を温めたりする暖房には熱が必要。環境にも配慮し、電気をつくる発電機用のディーゼルエンジンから出る排熱を利用し、省エネルギー化に取り組んでいます。
太陽光や風力発電設備も置かれ、発電機の燃料消費量を減らしています。しかし、これらたくさんの装置は、細かな維持管理が必要で、それらを担う隊員たちは、まさに昭和基地の電力会社、水道局の職員と言っても良いでしょう。何か一つでも故障して直らなくなると、昭和基地での生活は非常に不便になり、場合によっては命に関わります。

能力を結集

南極での仕事は電気をつくるための燃料管理からはじまり、各観測器や生活機器への送電、照明やコンセントへの送電の管理・運用に加え、送電線や機器の故障などがあった場合は、速やかに修理・部品交換を行うことが不可欠です。防災設備(火災感知器・非常放送)や太陽光・風力発電設備、時には観測機器や医療機器、調理機器など専門外の修理の依頼を受けることもあり、管理も修理もなんでもこなせる便利な「電気屋さん」が求められています。
夏の時期には新しい建物の建築工事や古い建物の解体工事などが行われ、電気工事も多忙になります。他の隊員は、それぞれの分野の専門家ですが工事としては素人。ただ、部門としては素人でも共有できる仕事が多くあるため、各部門の能力を結集し、みんなで協力して越冬しています。
越冬中はブリザード後の除雪作業も頻繁に行います。基地を守るため、観測・設営系の別なく手空きの隊員全員でバックホーやブルドーザー、雪上車を運転して除雪に取り組んでいます。
(2021年7月7日 電気新聞12面掲載、写真提供:国立極地研究所)

ブリザードで切断されたケーブルを補修。
電気設備だけでなく、専門外の機器の修理などを依頼されることも多い

第3回 越冬中は趣味磨き

昭和基地は基地主要部、東部地区、西部地区、夏期間使用地区に大別され、全部で67棟の建物があります。基地主要部は、隊長室や通信室、医務室など基地の運用に必要な設備がある管理棟のほか、基地の電力を発電している発電棟、隊員が住む居住棟などで構成されています。
東部および西部地区には、それぞれの観測部門が使用している観測系の建物などが並んでいます。夏期間使用地区には、主に夏隊員の生活拠点となる第1夏宿、第2夏宿やヘリポートがあります。

節水が大事

基地で生活するための電力はディーゼル発電機で賄っており、基地主要部には日本と同じ100Vで供給されています。生活用水はダムにためた雪解け水を処理して使用。処理の少ない中水をトイレなどに、ろ過装置で処理した上水を飲料用などに使用しています。毎分4リットルで処理しているため、節水は欠かせません。渇水になると風呂や洗濯の制限がかかることもあります。
暖房設備は、管理棟や居住棟などの基地主要部では電気をつくっている発電機のディーゼルエンジンからの排熱を利用して温水を循環させています。観測系の建物では主に油炊き暖房機が使われています。
昭和基地の通信はHF、VHF、UHF回線、インテルサット衛星回線電話網、イリジウム衛星携帯電話の通信設備で運用されています。また、国内とインターネットが常時接続されていて、主に観測データの転送に利用されています。
ヘリコプターで昭和基地へ向かうため、夏期間の生活は、自分の体重と荷物の重量を合わせ100㎏までと限られます。その他に中段ボール1つ20㎏までと限られます。その荷物で約1カ月半近く生活することになります。
生活する場所は第1夏宿に観測隊の隊長を含む夏作業の主要隊員と「しらせ」の作業支援員が割り当てられ、その他の隊員は第2夏宿で過ごします。第1夏宿は、2段ベッド2台4人の1区画で、ベッドはカーテンで仕切られています。
第2夏宿は2段ベッド1台の2名で1部屋になります。ベッドには布団が備え付けられています。室内にはそれ以外の設備はありませんが、共有部にソファやテーブルが置かれています。
越冬になると居住棟での生活に変わり、1名1室となり、室内にはベッド、机、本棚とロッカーが並んでいます。布団は一式配布されます。
トイレは水洗で、基地主要部の発電棟にあり、温水洗浄便座も完備。風呂は3人程度が一度に入れる大きさになります。夏期間の食事は「しらせ」の作業支援員の方が隊員分も作ってくれるので、「しらせ」船内の食事と同じものになります。越冬になると調理隊員の食事になります。
生活を円滑にするため、持ち回りで当直業務をこなし、食事の用意や共用の飲み物の準備、トイレや風呂、洗面所、食堂、通路の掃除を行います。管理棟には娯楽室があり、卓球、ビリヤード、ダーツ、マージャン、ギター、電子ピアノ、ドラム、カラオケなどの設備がそろっています。その他の趣味用品や嗜好品は私物として自分で持ち込みます。

第1次隊が建設した旧主屋棟で“開店”したバー。
貴重な息抜きの場だ(写真中央が上原隊員)

生活係活躍

夏期間は太陽が沈まない白夜となり、朝から晩まで忙しく作業をしていますが、冬期間は太陽が昇らない極夜に。日射のない時間は灯火制限があり、オーロラの観測を行っているので、外での作業ができなくなります。自然と室内にいることが多くなり、娯楽を楽しむようになります。
昭和基地で越冬している隊員の中には生活係と呼ばれる有志の活動があり、新聞、イベント、バー、喫茶、農協、漁業、理髪などが活動しています。私の趣味は音楽活動で、ギターや三線、ウクレレなど主に弦楽器を弾いて過ごしています。
6月の南極の冬至の時期になると、南極にある世界各国の観測基地でミッドウインターフェスティバルが開催されます。昭和基地でもこのお祭りを開催するため、それに向けて楽器の練習も盛んになります。
隊員の中ではスキーやスノーボードを持ち込み、斜面を滑りに行く人やダンベルや自転車、サンドバックを使って体を鍛えたり、基地内の壁にクライミングボードを作成して練習していたり、絵を描いたり、いろんな趣味を見かけることができます。この越冬中に新たな味を始める人も多いです。
(2021年8月4日電気新聞6面掲載、写真提供:国立極地研究所)

2010年の第51次隊参加時のミッドウィンター祭でギター演奏を披露する上原隊員(写真右)

第4回 フルコースの日も

南極観測隊員が南極で生活するために最低限必要な物は、建物、食事、衣類などが思い当たりますが、何といっても、暖房や電気の元となる燃料、人間が生きるための食料はかかせません。1次隊が越冬を始めた時の物資量は150トンだったのに対し、今年62次隊が「しらせ」で持ち込んだ物資量は約1042トンにも達しました。その中で燃料は約700トン、食料は約64トンを占めます。
人間が生活する上で食べることはとても重要です。様々な制約のある南極の生活ではなおさらで、食べる事自体が仕事のモチベーションに影響し、また生活の楽しみの1つでもあります。そのため、南極地域観測隊には調理を専門とする隊員が2名越冬しています。和食、洋食、中華を中心に各国の料理も作ってくれるので、日本と同じようなものが食べられます。

食料を含めた物資をコンテナで輸送する

搬入年1回

ただ、「しらせ」が昭和基地に物資を運んでくれるのは1年に1回のみ。キャベツや果物がなくなり、卵がなくなり、冷蔵で持ち込んだ食材はメンテナンスしながら延命していきますが越冬中盤になってくると見ることができなくなります。
平日の朝食はご飯、みそ汁と焼きたてのパンが用意されるほか、納豆、しらす、うめぼし、漬物、ベーコンや目玉焼き、ヨーグルトフルーツなどが並んでいます。昼はラーメン、うどん、そば、牛丼、スパゲティーなど休憩時間にさっと食べられる物が提供されます。
毎週金曜日の昼はカレーです。これは「しらせ」 の生活でも同様で、曜日が分かるように工夫されています。夜は肉料理や魚料理のメインにサブが2点ほど添えられ、ご飯やみそ汁が付きます。
休日日課には焼肉、しゃぶしゃぶ、鍋、手巻き寿司、お好み焼きなどを卓ごとに囲みます。生活係や隊員の企画では手打ちそば、ホットサンド、餃子などを作り、休日のランチにふるまったりもしています。農協係では、野菜栽培室でカイワレ大根やもやしをつくります。今年の農協係の活動は活発で、サラダ用の葉物やキュウリなどを作っており、越冬に入っても野菜を口にすることができます。
昭和基地から離れた野外活動中は、カレーや親子丼などのおかずを真空パックし、冷凍保存したレーションを湯煎で温めて、ご飯だけ圧力鍋で炊いたり、肉や魚、冷凍野菜で鍋を作ったりしています。野外活動ではいつ悪天に襲われて停滞しても良いよう、多めに食材を持っていきます。
またその他にも予備食として2、3日分の行動食と非常食を持ち、食料が尽きることがないように3重に準備します。万が一に備え、さらに個人用の非常食も必ず携行しています。

祭りの日に

6月21日前後にはミッドウインターフィスティバルという南極のお祭りがあります。南極の極夜のど真ん中(日本では夏至)は太陽が出ず、気分も暗くなりがちですが、世界各国の南極観測隊が元気を出すために開いています。
そのお祭り期間には、調理隊員が全力で調理したフルコースが楽しめます。2名の調理隊員が分かれて1日目は和食のフルコース、3日目は洋食のフルコースが供されました。私は結婚式などに招かれてフルコース料理に接したことがある程度ですが、南極で食べることができる調理隊員のフルコースは桁違いに豪華です。
料理の感想を伝える力がないので、昭和基地近くに来られた際には是非立ち寄ってみてください。2日目は隊員が通路棟の各所に屋台を置きやきそばやたこやき、クレープ、汁物、かき氷、わたあめ、やきとり、肉盛り、射的などの屋台を出店。日本のお祭りのような晩御飯になりました。
(2021年8月18日電気新聞6面掲載、写真提供:国立極地研究所)

高級レストランと見まがうほどの豪華な料理もふるまわれる

第5回 自分の役割 見つけた

私が電気工事士を目指したのは高校2年生の時。第2種電気工事士の試験に合格したことをきっかけに、これを仕事にしたいと思いました。電気工事業で一番大きな会社に入りたいと思い、目標としていた関電工に合格した時は本当にうれしかったです。
入社して、1年間の研修後、現場に配属されましたが、しばらくは多忙のため、心身共に余裕がありませんでした。しかし、今振り返ってみると、一人前の電気工事士になるためには、どうしてもこの時期の経験が不可欠であったと感じます。
実務経験を積み、第1種電気工事士、1級施工管理技士、監理技術者、基幹技能士の資格を獲得。10年ほどたった頃には100m以上のタワーマンションや高層オフィスビルの新築現場で、電気工事の総合職長をしていました。
南極観測隊への参加のきっかけは、元隊員の先輩からの勧めによるものでした。さらに複数回の越冬も経験することができたのは、自ら計画したというより、先輩や同僚、そして家族からもたらされたものが大きかったと感じています。

全員の力で

4回の南極越冬生活を通じて常に感じていることは、南極の過酷な環境では、一人では何もできないということです。私は電気の専門家ですが、他の隊員にもそれぞれ専門分野があります。何かをやり遂げようとすれば、その分野の専門家がリーダーとなり、全員が協力して活動しないと何もできません。
国内の仕事でも1つの建物を建設するのに、それぞれの専門家が集まって工事を進めていくので、仕事の環境は似ている所があります。性格も仕事の仕方もさまざまですが、誰が欠けても成り立たず、協力し合わなければ乗り切ることはできません。

62次隊の他の機械隊員と写真に納まる上原隊員(前列左)

薫陶を胸に

南極観測隊では仕事以外に生活も共にします。育ちも考えも異なるさまざまな人が共同生活を送ることから、人間関係も複雑になりがちです。悩むこともありますが、それは当然のこと。観測隊の先輩からは「日本でも見られる物より、南極でしか見られない物をしっかり見てきなさい」とアドバイスを受けました。
隊員は毎年異なり、一つとして同じ隊はありません。何度参加しても、電気工事士としての基本的な仕事に変わりありません。ただ、隊の個性に応じて立場や役割など、自分自身を変えていくというのも、繰り返し参加したくなる魅力ではないでしょうか。
南極観測隊での経験から、自分の「やりたいこと」「なりたいこと」よりも、「役に立つことができるのか」「支えることができるのか」という主役をサポートする縁の下の力持ち的な役割が自分に合っているようで、そこにやりがいを感じています。
南極で「日本と変わらない普通の生活ができる」という錯覚は非常に危険です。一歩基地から離れれば、自然の過酷な環境にさらされるからです。設営の目標は、日本と変わらない「普通」を提供することにあるのだと思っています。
(2021年9月1日電気新聞10面掲載、写真提供:国立極地研究所)